命の在り方

ネイティブライフ・クリエーター協会の吉川です(*'ω'*)

本日のユタカコラムです⇓⇓

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さて。

脈々と続く「種としての命」と

あなた一人だけの「個としての命」と

あなたはどちらを持っているだろうか。


ならば、多くの他人が含まれる「種」と

あなた一人の「個」。

日頃どちらを大切にしているだろうか。

ならばあなたは本当に、「命」を大切にしていたと言えるだろうか。


命というのは、本来無くならずに続いていく。

旨いみかんばかり食ってるヒヨドリは みかんの香りがして旨いのだそうだ。

では、ヒヨドリに食われたみかんはいつ死んだのだろうか。

ならば、美味しく食べられたヒヨドリは本当に死んだのだろうか。


では、コンビニの唐揚げにされたニワトリか何かというのはどうなのだろう。

動けないオリの中で死なないクスリを大量に食べてよくわからないうちにバラされ

よくわからない液体につけられ何かわからない味をつけられて電子レンジで

衣か肉かもわからないようになるからあげか何かとして売られている

それは果たしていつ生きていたのだろうか。

ならば いつ死んだのだろうか。

そのよくわからないものが私の血となり肉となる時、その命の行方は 一体どこへ行ったのだろう。


これは、「クチに入れる」のは同じでも

旨いヒヨドリやカモ、鹿、イノシシや

旨い野菜や果物を食うのと全く違うのではないだろうか。


そして残念なことに人間は屍どころか糞便すら土に帰らない。

ならば、我々の命の束は、どこに向かいどこに帰るのだろう。

 駆除されたクマは山へ帰ることが出来たのだろうか。

その命の行方は、どこに向かいどこに帰るのだろう。


命というのは、奪うとか奪わないとか、

その是非など大した問題ではないのではなかろうか。


私達は、「種」として親から命の糸を預かり

食べ物から「血肉」として命の糸を預かり

その束が解ける時またその糸を誰かや何かに預けて行く。

その間、その束を大切に守るようにできているのが「個」なのではなかろうか。

これは、見方が違うだけで 紛れもなく日々我々の目の前で行われている事ではないか。

ただ、見ていないだけで。

この在り方を知ることが命そのものを理解する上で

そして、人の行いの是非や健康、食、その上に成り立つ、

人生や価値観においても非常に重要な観点になるのではないだろうか。


私は魚も捌くし、鹿も撃つ。

 今日は良い貝が買えたので、煮付けにして食った。

 一番旨い状態を引き出すにはまだ腕が足りないが

それでも毎日考える。

挑戦する。

旨いということは、 命の束をそのまま引き継ぐ事だからだ。

そしてそれは、私や私の大切な人々がもつ 

美しく元気な「命の束」を私は大切に思うからだ。

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