「かみ」でわかる日本人の仕事と倫理観
古来の意味は大和言葉で知る事が出来る
何故「同じ」なのか。これは「この国の所有者」を知るとわかる
では何故、この「上」と「神」が古来は同じ意味なのか。
これをより理解するのに、まずこの国で一番偉い人を考えてみましょう。一番偉い人と言うのは、現代風に言えば、「この国の所有者」となるでしょう。よって、これが誰なのか。これを知ることは重要になるわけです。
古事記や日本書紀というのは、ただの神話というだけではなく、国の生まれの神話から人の生まれ、その神々から「天皇家の話」までが書かれています。つまり、見方を変えれば天皇は「国をつくった神のその子孫である」との証明書という意味があります。
これを公文書として作る事によって、この国の「天子」は「天皇家」である事を証明しているわけです。
もう少し具体的にいえば、この国の所有者は「天照大神」つまり神様が所有者であり、天皇(家)は天照大神の「代理人」を務める正当な家系であるとされています。そして、実務は「議会」でおこないますよ、という意味が含まれています。現在ではこれを「内閣」がやっているという形なんです。
この形に則って、この国は2600年運営されてきたわけです。
まず「天皇」が「民の平和、幸せ」を願うので、「議会」はどうすれば民は平和で幸せに暮らせるかを考え話し合います。
簡単に言えば、我々一般人がやっているのは、「作業」であり、それは「仕事」の一部であり、それは世のため人のための「事業」の一部であり、その事業の結果、所有者の代理人が願う「民の平和と幸せ」を作ろうとする試み、と言うふうに捉えることができるわけですね。
つまりこの時の上司というのは、そもそもは「その組織の中で一番神に近い人」になるため、食事の席などでは、「神の代理」として「上座」に座るわけです。
このように捉えて考えてみると、「上」と「神」が同じ意味になる、と言うことが理解できるのではないでしょうか。
偉い人は「神の代理」としての自覚が必要だった
この考え方は非常に優秀であり、民は、一つ一つの作業が「(きっと)これはみんなの幸せを作っているのだ」という「誇り」を持てるわけで、上司はそのまま遡っていくと「神」に繋がっていることから、民一人一人も「神に使えている」ことになります。
そして上司は、人の上に立つということが「神の代理」として恥ずかしくない人間でなければなりませんから、皆が「誇れる」人間がそのものたちの「上」に立っていたわけで、「自分のエゴ」のために「陰謀」などをどれだけ使ったところでなれるものではなく、そのようなものは逆に下にみられていたわけです。
つまり大きな倫理として、「民の平和と幸せ」を願い、そして「神に恥じない人間」である人が「偉かった」わけです。
そしてそれに逆行するのは、倫理に反する事だったわけですね。
ただ現代は、敗戦後から続く、数百年前に生まれた「民主主義」と「資本主義」の影響で、この2600年以上続いてきた倫理観は大きく崩れています。
現代偉いのは「カネを持っているもの」であって、「民の平和と幸せ」よりも「自身の幸せ」を追い求めることを良しとされています。
つまり、「神」と「金」が同じ意味になってしまっているわけです。
なので、「上」にいくほどに「神」からは遠のき「金」が増えます。「陰謀」などのきな臭い状態になっており、みな欲に任せて「神」を踏みつけてでも「金」に執着し、それができるものが「偉く」なってしまっている、というなんとも言えない状態になっていると言えるわけです。
古来の日本人の倫理観を取り戻そう
実際のところ、そもそも日本は議会制であって、王政でもありませんし、「神の代理」が「民の平和と幸せ」を願っている以上、「民」が中心であるわけです。だから、元々の考え方はほとんど民主主義に近いんです。
ただ違うのは、一番偉い者が「金を持った人」なのか「神」なのかの違いなんですね。
だから「偉い」人がちゃんと「偉かった」わけです。
そしてその結果、2600年もの間、統一国家として平和をもたらしてきたわけです。それがほんの100年の間で急速に崩れてきて、一人一人の心に豊かさが失われ、この国が日本と言えるのかどうなのかさえ、わからないようになってきたのが現代と言えます。
現代人の悩みはほぼ100%人間関係であり、その原因はほぼ100%、この100年に発生している、と言えるほどなんです。詳しい解説は長くなるので今回は割愛しますが。。
ですが、逆に言えば「ほんの少しの違い」だけなので、これはまだまだ取り戻せるということです。
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